リオ五輪で全スポーツ傷害の30%を占めた肉離れは、入念な準備をしても防げなかった。「ストレッチ=怪我予防」という常識と均一な筋トレ指導の限界を、順天堂大学の研究知見から問い直す。
オリンピックの舞台でも防げなかった事実
2016年リオデジャネイロオリンピックで、肉離れなどの筋損傷は全スポーツ傷害の約30%を占めた。この数字に着目した順天堂大学の研究者は、「入念なウォーミングアップと十分な調整をしていても、アスリートが筋損傷で倒れる」という矛盾を研究の出発点に据えている。
同研究者によると、2001年以降の調査では肉離れの受傷率が年4%ずつ増加し続けており、リハビリ後の再発率も約20%に上るという。「筋トレで筋肉をつければ怪我は減る」という直感は、これらの数字の前で成立しない。
筋肉のはたらきは「動かす」だけではない
傷害予防の文脈で筋力トレーニングを正しく位置づけるには、筋肉の役割そのものを整理しておく必要がある。
順天堂大学大学院スポーツ健康科学研究科の町田修一教授は、筋肉の主な仕事を「身体を動かす、力を出す、身体を支える」と整理したうえで、筋肉を使うことで脳への刺激・臓器や血管への好影響・骨格筋から分泌されるマイオカインを通じた全身への作用といった多面的な機能を持つことを指摘する。研究者が引用するフレーズ「Exercise is the real polypill(運動は真の万能薬)」が示すように、マイオカインは体の特定部位だけでなく多様な箇所に影響を及ぼすと考えられており、動かないことでその恩恵が失われると同時に、健康に悪影響を及ぼす因子も生じることが分かってきている。
筋肉の機能がこれほど多面的であるとすれば、「筋肉量を増やす」という一点に絞ったアプローチだけで傷害予防が完結すると考えるのは無理がある。その複雑さこそが、単一介入の限界を生む背景だ。
「運動直前のストレッチ」という常識への問い直し
では、筋損傷予防として広く行われているウォーミングアップ時のストレッチは十分なのか。
順天堂大学の研究者は、「運動直前のストレッチに肉離れ予防効果はない」という海外の研究知見に衝撃を受け、これが自身の研究を推進する原動力になったと述べている。スポーツ現場で長く信じられてきた「ストレッチ=怪我予防」という常識に、科学は再考を迫っているわけだ。
同研究者は現在、科学的根拠に基づくウォーミングアップ法・トレーニング法・コンディショニング法の確立を目標に掲げている。「正しいウォーミングアップ法」の答えはまだ出ていない。指導現場に求められるのは、慣習化したルーティンを所与のものとせず、その根拠を問い直す姿勢だ。
筋損傷リスクには遺伝的な個人差がある
筋肉の機能が多面的であるということは、選手ごとの特性の違いも大きいということを意味する。順天堂大学の研究では、筋肉の硬さ(伸縮のしにくさ)には性差・年齢・日常のトレーニングに加え、「アスリート遺伝子」と呼ばれるαアクチニン3遺伝子や、肉離れなどの筋損傷リスクに関連する遺伝子のタイプも影響することが分かってきた。
同じ強度のトレーニングを積んでも、遺伝的背景によって筋肉の性質が異なり、損傷リスクも個人ごとに変わりうる。「全員に同じメニューを与える」指導では、この個人差に対応しきれない。
現場に求められる「包括的な視点」
スポーツ現場で傷害予防に取り組む理学療法士の複数の報告でも、障害予防における「フィジカル能力向上の重要性」と、下肢筋力・柔軟性・生活習慣指導を組み合わせた包括的なアプローチの必要性が指摘されている。筋力トレーニングは「単独で機能する万能策」ではなく、複数の要素を組み合わせた計画の中に位置づけるものだ。
レジスタンストレーニングの効果的な実施を扱った報告でも、「正しく実施されなければ効果がない」という点は明示されており、内容の理解と正確な遂行が前提になることが確認されている。
※ここからは編集部の推定・示唆です。
これらの知見を踏まえると、指導者が現場で意識できる方向性として次の三点が考えられる。(1)ストレッチを「ルーティン」として形式的に続けるのではなく、その根拠と効果を問い直すこと。(2)選手個々の筋肉特性・疲労状態を観察し、プログラムを調整すること。(3)筋力トレーニングを孤立した手段としてではなく、柔軟性・コンディショニング・生活習慣を含む包括的な計画の一部として設計すること。
「筋力をつければ怪我は防げる」という期待はひとつの事実を含んでいる。しかしリオ五輪の30%という数字、そして遺伝的個人差の存在は、「均一な筋トレ」では届かない領域があることを示している。競技特性と選手一人ひとりの特性を考慮した「カスタムメイド型のトレーニング法」の確立を目指す研究が進む今、指導者に求められるのは「全員に同じを与える」発想からの転換だ。
参考文献